シン・ヤオマニアコラム2020年夏号ヤオマニアック噺より

みなさん、こんにちは。観光家の陸奥賢です。八尾のマニアックな名所をご案内する八尾コラム。第2回は「河内キリシタン」です。
戦国時代、じつは八尾は日本でも有数のキリシタンが居住した集落でした。天正8年(1580)9月、織田信長は大坂本願寺との戦いが終結し、河内を統治する拠点として現在の八尾市本町界隈に八尾城建設を命じます。 命じられたのがキリシタン大名のシメアン池田教正でした。 教正は摂津池田氏の一族で、永禄6年(1563)に飯盛城で受洗。 熱心なキリシタンとして有名であったので彼を慕って八尾城界隈には800人近いキリシタンが集まったといいます。
また八尾には2か所の聖堂があったことも宣教師の記録でわかっています。正直、今の八尾市内を歩いていてもキリシタンの痕跡などどこにもないように感じられますが、じつは八尾市立歴史民俗資料館には西郷共同墓地にあったキリシタン「満所(マンショ)」の墓碑が収蔵されているので間近で鑑賞することができます。
天正10年(1582)5月26日に亡くなったと刻まれていますが、同年6月2日に本能寺の変が起こりますから、まさに激動の時代を生きたキリシタンの墓だということがわかります。
西郷共同墓地は八尾市末広町1-1-51にあります。こちらに伺ってみると、墓地入口に大きな六地蔵が並んでいます。像には「□□岳大菩薩妙□□尼菩提 天和三亥年宗清禅定□菩提深寛大法妙菩薩 二月三日」と刻まれているので、天和三年(1683)の建立です。「尼菩提」とあるので女性の供養のために建立されたものでしょうか。
満所さんより約100年ほど後の時代のものですが、古風で威厳のあるもで、これもなかなか見ものです。ちなみに『八尾市史』では「西郷の西南の字谷小路に伴天連屋敷と称し、会堂が取り壊された時、鐘をここに埋めた」といった記述があります。西郷墓地界隈の地中には、もしかしたら河内キリシタンが聞いていた南蛮の鐘が眠っているのかもしれません。
※□は判読不明
観光家 陸奥 賢
まち歩きプロデューサーとして300以上のコースを考案。「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「直観讀みブックマーカー」「当事者研究スゴロク」なども手掛ける。著書に『まわしよみ新聞のすゝめ』。