満所キリシタン墓碑
永禄6年(1563年)、三好長慶が飯盛城下での布教を許可し、キリスト教の保護を命じたことで、多くの家臣が受洗・入信し、河内地域においてキリスト教が広く受容されていきました。
墓碑は、製作年代の明らかなキリシタン墓碑の中で2番目に古いもの
で、八尾市内の西郷墓地(末広町1丁目)に残されていました。天正10年(1582)5 月26 日の銘文を刻んでいます。
天正9年(1581)の千光寺跡出土田原礼幡(れいまん)キリシタン墓碑(府指定有形文化財〔歴史資料〕・四条畷市)に次ぐもので、河内におけるキリシタン最盛期の遺物として重要なものです。
神田先生も、何度も西郷墓地には足を運ばれたそうで、今井さんと一緒に拓本をとった時のエピソードを笑顔で話されていたのを思い出します。

砂岩製で、大きさは横幅51.2㎝、高さ89.1 ㎝、奥行21.1㎝。台座まで一石にて彫り出し、横幅・高さ・奥行は、全国のキリシタン墓碑のなかで最大級です。
形状は舟形(ふながた)あるいは蓮弁形(れんべんがた)といわれる尖頭形(せんとうけい)で、文字は輪郭を縁取り、先端部に炎のような突起を付した蝋燭(ろうそく)のような意匠を施すなど、他に類例がない高い装飾性が特徴です。
被葬者名は、洗礼名「満所(マンショ)」とともに「MAИ(N)TIO」とも記しており、漢字とその語音をローマ字にて表した最古級の金石文(きんせきぶん)資料です。
※金石文・・・金属や石などに記された文字
[令和2年3月12日府指定・八尾市立歴史民俗資料館保管]
※以下文章・河内キリシタン関係マップは、カトリック大阪大司教区 大阪北地区 しろきたブロックさまブログより
1582年(天正9)のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡にとガスパル・クエリョの年報には、1582年2月には既に若江に城は無く、同時に池田教正は八尾に居城していたとあります。続けて、「この城は新しく、仮の聖堂が2箇所ある。」と記録されています。この八尾に居城した池田丹後守教正は、摂津池田氏の一族と考えられ、キリシタン武将としても有名でした。また、茶の湯にも長けていてその双方に、ある時期には頻繁に彼の名が登場しています。彼の事は、異国のキリシタン達の耳には「イケピタフンゴノカミ」と聞こえたようで、そのように記録されています。
