<Ryu’s Paper(龍華図書館発行)>テーマは『河内キリシタン』

大東・四條畷以外

Ryu’s Paper(龍華図書館発行2022年5月号)より

今月号のテーマは『河内キリシタン』です。久宝寺寺内町など、八尾市は仏教との繋がりが深い町で知られていますが、かつてキリシタン大名と呼ばれる大名によって統治され、キリシタンの聖地であった時代がありました。

昭和8年(1933年)9月5日、八尾市末広町にある西郷墓地から『満所まんしょキリシタン墓碑』が発見されました。

墓石は砂岩で造られ、大きさは高さ82cm、幅52cmで司教しきょう冠形かんがたをしています。墓碑の中央上段にラテン十字、中央にイエズス会の『HIS』、下段に草書体で縦に小さく『満所』の漢字、その下に横書きで『MAИTIO』 、右に『天正十年壬みずのえ午うま(1582年)』、左に『五月二十六日』と刻まれています。昭和10年(1935年)に重要美術品に認定され、現在、日本で2番目に古いキリシタン墓碑です。

永禄7年(1564年)に河内から畿内一円を納めていた三好長慶とその家臣らが洗礼を受け、その中にのちの八尾城城主となる池田丹後守教正のりまさがいました。教正は若江(東大阪)に住み、洗礼名をシメアンといい、熱心な信者でした。

長慶亡き後は養嗣子の義継に仕えていましたが、義継は織田信長に滅ぼされてしまいます。信長は教正と共に、野間康久と多羅尾綱知をそのまま若江城に置き、河内北部の共同支配を任せました。この三人を『若江三人衆』といいます。

天正8年(1580年)、信長による大坂本願寺攻めが終わり、その前線基地であった若江城は廃城となりました。若江三人衆は八尾城へ移ったのですが、じきに教正は共同支配を解消し、分割して得た八尾の土地で自由にキリスト教を布教したいと考え始めます。

天正9年(1581年)頃、教正は八尾で宣教師のために米二百俵を産出する土地を寄進し、仮聖堂を2カ所建てました。西郷の東南の字谷小路に伴天連バテレン屋敷と称し、仮聖堂が取り壊された時に、ここに鐘を埋めたとの伝説があります。

正保4年(1 647年)の西郷の庄屋の譲り状の中に『大うす(デウスの意)かいと』の字名が記され、伴天連 屋敷の伝えとともに仮聖堂に関連があるものではないかと考えられています。

イエズス会日本 通信の天正10年(1582年)の文書によると、八尾の城下には800名のキリシタンがいる、と あります。

八尾にキリスト教を根付かせようと活動していた教正でしたが、同年6月の本能寺 の変で信長が討たれ、豊臣秀吉がその跡を継いで河内国全体を支配したため、教正は美濃 (岐阜県)へ国替えになりました。

そして天正15年(1587年)に秀吉が伴天連バテレン追放令ついほうれいを出し、 宣教師の国外退去を命じます。キリスト教の禁教政策はその後も長く続きました。河内キリシ タンの短い歴史を、確かに証明するのがこのキリシタン墓碑なのです。

タイトルとURLをコピーしました