三箇キリシタン

大東市・四條畷市

三箇の村は有名な三箇キリシタン発生の地である・・・・・。

永禄三年(1560)耶蘇会宣数師ヴィレラはロレンソと共に京都で開教し、翌4年8月、堺でも布数しその2大都市の中間に三箇は位置しており、ロレンソがアントニオ(結城山城守の長男左衛門尉)と共に永禄7年飯盛城(三好長慶の居城)で伝道し、その時受洗した白井伯耆守(重臣)など73人で、彼らによって此の地方の宣数が僅か1~2ヶ月で急速に開拓されたのである。

白井伯耆守はサンチョと称し、神社を廃して教会に改め、その家臣60人と三箇住民5 00余人はたちまち信者となった。永禄7年、畿内の覇者、三好長慶が病死すると、伯耆守とその子、豊後守マンチョは飯盛城を委ねられ、ここに三箇キリンタンの黄金時代が展開された。

永禄8年7月5日京都を追放された、ルイス・フロイスが三箇へ来たその頃の書翰しょかんに 、

都を放逐せられ大いなる苦難を経てサンガと称する甚だ小さき島の小庵に入った。ここには米及び密柑の外なし・・・・・。云々。比庵は飯盛のキリシタンの頭、名をサンチョと伝い 三好殿の家にて重要なる武士にしてデゥスの家に於ては其徳高きを以て更に重要なる人の領有し水に囲まれたる小島に建てられたるものなり(1565・8・3 河内国三箇島の聖母の堂にて)

永禄11年の復活祭は前年同様三箇で行われ、天正元年(1573)には三箇で摂河の信者者を集め盛大に祭礼を行い、復活祭当日には提灯行列を行った。

一向宗の本拠、石山本願寺に対し織田信長が大攻撃を開始すると三箇武士も大和川を舟で下って攻城戦に参加し、キリンタンたる白井氏の勢力は増大した。この地方では、遂に信者数6300人にも達し、三箇領内1人残らずキリンタンとなった。三箇城内にも宏大な会堂の建設が始まった。

全盛を誇る三箇キリシタンに試練の日が来た。

三箇城主が信表に謀反を企てていると疑われ、豊後守マンチョは捕われ、佐久間信盛の援護で事なきを得たが、若江城主多羅尾右近に三箇への帰途を再び捕えられ、白井父子は、 信盛の城に謹慎の身となった、此の間大供水が三箇一帯を襲い、この機に乗じ石山本願寺方の船隊は、多数の銃手を率いて三箇を攻めた、三箇城が正に蹂躙じゅうりんされようとした時、シメアン地田丹後の率いる援軍が現われ、本願寺方は一時退いたが、事あって丹後が氏を転ずるや、再び崩れ込んで来た。

「危除と男女及び児童の悲歎ひたんと涙及び声は、人々の心を破るべきものにして、一同眼前に死を見るの心地」であった。その時奇蹟的に現われて、三箇城方を救ったのは、外ならぬ佐久間信盛であった。天正6年白井父子は許されて帰城した。 2,000余の家臣の主である伯耆守は、一切を豊後守に譲って新築の会堂に篭って宗教生活に没入した。カリヤン書翰しょかんによると大正7年の三箇キリシタンは4,000人であった。

ここに思いがけない大事件が勤発した。信長が本能寺で明智光秀に討たれた。 仏教征圧の方便としてキリスト教を保護した信長の死の影響は三箇にとって何処よりも大きく強かった。三箇は、光秀が勝利の晩に与える云う河内半を選んで、中国から急ぎ帰京する秀吉に対した、だが光秀はあえなく敗死し、再挙の望みを失った白井父子は、大和の筒井順慶の許に逃れた。

一方守る者のない三箇の地は悲惨であった。「攻撃者は三箇に火を放ち聖堂は焼かれ、人々は大いに貧窮となった」。三箇を中心とする村々は掠奪され火を放たれた。天正10年(1582)三箇は再びキリシタンである岡山城主ジョアン結城に与えられた。此の新領主は2年にして移封され、小牧山の合戦に従って戦士したため、三箇キリシタンは急速に衰えることになった。代わった高山右近により、天正12年に岡山会堂が大阪城附近に移され、三箇の中でも熱心な信者は大阪に移転した。

最初のキリスト教を保護奨励したかに見えた秀吉は、突然キリスト教を廃止した。天正15年の事である。その後、三箇出身については、レオン・パジェスの日本切支丹宗門史に依れば、元和2年に伝道生活8年のマチヤス・サンガが、高山右近らと共にマニラに国外追放され41才で異邦に果てている。又元和8年には、武家出身故に釈放しようとの奉行の言葉にも耳をかさず、アントニオ・サンガは25名の信者達と共に長崎で火刑に処せられ、55才で奉教の生涯を閉じている。

<住道史より>

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