四條畷楠正行の会発行の楠正行通信 第84号「大河ドラマ楠公父子物語、NHKに誘致陳情」の記事の中で、飯盛城で洗礼を受けた73名の武士の一人である、キリシタン大名池田シメアン丹後(池田丹後守教正)が楠正行遺腹の子であることが触れられています。
正行遺児 池田教正と同姓同名の池田丹後守教正
正会員の木村さんが、四條畷市立歴史民俗資料館主催の「歩いて学ぶ考古学講座」配布資料、「若江城について」を例会に持参された。 資料の中に、天正元年、若江三人衆と呼ばれる家老、池田丹後守、多羅尾右近、野間佐吉が信長の命で若江城に入り、野間康久の妹婿の池田丹後守教正が三の丸に居住した、とある。 そして、池田丹後守教正は、摂津で生まれ、70歳で死亡した、しかし池田家系譜には載っていない、とのメモ書きがある。 木村さんは、正行の遺児、池田教正と同姓同名に関心を持ったようだ。

池田教正 正行遺児、第二代池田城主
楠正行遺腹の子である。(楠正行通信52号・80号参照) 四條畷の合戦で正行戦死後、正行の妻の実家内藤満幸が北朝方に寝返ったことに正儀が怒り、懐妊していた正行の妻は実家に帰されて後、池田城主教依に再嫁し、生まれた子どもが教正。幼名多聞丸、のち十郎と称し兵庫介とも称した。 教正は2代城主に着くも、子佐正の成人を待って城を譲り、自らは遠く安芸の国佐伯郡五日市村に去り、ここに城を築き、南朝に帰属した。 教正三代の末裔充正の弟、恒元の子恒利は永禄年中に出奔して尾張に移り、その妻が織田信長の乳母となった縁で、諱の一字をもらい信輝と改めた。その子輝政、その子光政は岡山城主となって繁栄し、今日の池田家に通じる。 すなわち、岡山池田家は正行後裔の池田城主池田氏の分流に当たる。
池田丹後守教正 16世紀河内キリシタン大名
天正8年(1580)、池田シメアン丹後(池田丹後守教正)は八尾城に入りました。飯盛城で洗礼を受けた73名の武士の一人で、娘は岡山城主結城ジョアンに嫁いでいます。 フロイス日本史には、以下の記述があります。 河内には堅固で、よく整ったキリシタン宗団が存在していた。三箇から二里半ないし三里たった若江と称せられるところである。そこは飯盛城で最初にキリシタンになった人々の内多くの貴人たちが住んでいた。彼らは元来河内の国王、三好殿の家臣であった。しかるに信長は、この三好殿(三好三人衆)を殺害せしめたので、池田丹後シメアン殿が彼らの家臣たちの頭となった。彼は稀有の才能を備えた貴人であり、全く信仰に生き、改宗のことに熱意を燃やし、イエズス会の真の友人であった。彼はその若江にも、立派な司祭館を付した教会を建設した。(四條畷市立歴史民俗資料館・第22回特別展「隠された墓碑」冊子より)


