信長に先駆けた男・・・「日本の統治者」と呼ばれた三好長慶の実像

三好長慶

■大東市無料配布冊子 歴史街道 信長に先駆けた男・・・「日本の統治者」と呼ばれた三好長慶の実像 (※本記事は月間歴史街道2015年4月号に掲載されたものです。)発行日:平成27年3月末 発行者:株式会社PHP研究所
天野忠行(文):昭和51年(1976)、兵庫県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)現在、関西大学非常勤講師を務める。筆書に「戦国三好政権の研究」(清文堂出版)、「三好長慶」(ミネルヴァ書房)今谷明氏との共同監修に「三好長慶」(宮帯出版社)、共編著に「戦国・織豊期の西国社会(日本史史料研究会)など。(※2025年現在天理大学教授)
イラスト:諏訪原寛幸

信長に先駆けた男・・・「日本の統治者」と呼ばれた三好長慶の実像

十八世紀前半、オランダで発行された「歴史地図帳」が記載する日本の統治者の変遷には、足利将軍と織田信長の間に「三好殿」とある。すなわち、三好長慶であった。管領細川晴元の下で力を蓄え、一三カ国を支配し、主はおろか将軍をも凌ぐ権威を誇った。その先進的な政策の数々は、まさに信長の先駆けと呼ぶにふさわしい。「諸人之を仰ぐこと北斗泰山」と称され、河内飯盛城から天下を望んだ長慶の、知られざる実像と魅力とは。

信長の前の「日本の統治者」
戦国大名・三好長慶といえば梟雄(きょうゆう)・松永久秀の下剋上を許した、保守的で凡庸な人物ー。このように語られることが多く、今でもどちらかといえばマイナスのイメージを持つ者が多いかもしれません。作家の司馬遼太郎氏は著書で、「大志がなかった」と語っていますし、戦国史研究においても、長慶は長らく「織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と違い、歴史を前に進めた人物ではないので、研究をしても意味がない」とされてきました。

しかし、それは長慶の真実の姿でしょうか。長慶は実際には久秀をうまく使いこなし、下剋上を許していません。また、幕府の滅亡から統一政権の成立に至る過程は、「信長―秀吉―家康」のラインで語られてきましたが、「長慶―信長」のつながりこそ、注目すべきだとかんがえています。

なぜなら長慶は、「信長に先駆けた男」に他ならないからです。

ひとつ興味深い史料を紹介しましょう。一八世紀前半、オランダで発行された「歴史地図帳」という百科事典の挿絵「日本の統治者の変遷」には、次のように記されています。

DAIRO内裏(天皇家)ーCUBO公方(足利将軍家)ーMIOXINDONO「三好殿」ーNABUNANGA「(織田)信長」ーFIXIBATAICOSAMA「羽柴太閤様(豊臣秀吉)」ーFANDEYORI「(豊臣)秀頼」ーDAIFUSAMA「内府様(徳川家康)・・・・

江戸時代は、国交のあったオランダ人でも日本国内を自由に往来することは禁じられていたので、長崎の出島で幕府の役人から日本の歴史を聞いたのでしょう。少なくとも、オランダ人と接していた役人は、信長の前に長慶という「日本の統治者」がいたと認識していたのです。 しかし、江戸時代中期に、主への忠義を重んじる儒学が浸透すると、主君である足利将軍や細川氏と対立した長慶は、「世を乱した輩(やから)」とマイナスに評価され、近年に至ったのでしょう。

父の仇・細川晴元との闘い
では、三好長慶は戦国時代をどのように生き、どんな点で「信長に先駆けた」といえるのでしょうか。その真実の人物像と魅力を探ってみましょう。

長慶の実像が広く伝わっていないのは、活躍の舞台であった畿内政治の複雑さも影響しているのかもしれません。長慶が生を享けたのは、大永二年(1522)で、甲斐の武田信玄の一歳下、信長の一二歳上にあたります。

三好氏は、もともと四国・阿波の守護細川氏の家臣であったが、永正年間(1504~1521)より活躍の場を畿内に広げました。長慶の父・元長は畿内に進出した細川晴元に仕え、晴元のライバル・細川高国を討滅するなど傑出(けっしゅつ)した働きを見せます。

ところが晴元は、勢威を伸ばす元長を「脅威」と感じ、「危険人物」と警戒します。そして、享禄五年(1532)、一向一揆と手を組み。元長を亡き者にした。このとき弱冠十一歳の長慶は、堺から阿波に退去し、危うく難を逃れています。

長慶にとって晴元は「父の仇」となりました。では早急に仇討ちを図ったかといえば、そうではない。翌年には、元長を討った一向一揆が勢力を伸ばし、晴元自身にも抑えきれなくなると。長慶は両者の和睦を斡旋して、晴元の元に帰参するのです。

現在の我々の感覚では、長慶の行動は理解しにくいかもしれません。しかしながら、当時の主従関係は、あくまで「家」と「家」のつながりです。すなわち、晴元と元長の間に諍(いさか)いがあっても、それは個人的な事情にすぎません。二人の間に何があろうと、長慶にとっては細川氏が主家であり、晴元が主君であることに変わりはなく、長慶が晴元を討てば、それは主殺しに他ならないのです。もちろん長慶は、いつかは晴元を超えてやろうという決意を固めていたでしょうが、その思いをひとまずは胸に秘め、晴元に再び仕えたのです。

長慶は晴元の手足となり、主家の畿内支配を大いに助けました。そして一五年近くも雌伏(しふく)の時を過ごしながら、主君を凌駕(りょうが)する機会を窺(うかが)い続けたのである。ターニングポイントとなったのが、天文一八年(1949)の江口の戦いです。当時、すでに摂津に根を張り、力を蓄えていた長慶は、晴元の側近となっていた一族の三好政長を打倒するという名目で、ついに晴元と対峙しました。この時、長慶は直接的に主家の打倒は掲げていません。細川家を惑わす政長を除けと諫言(かんげん)し、あくまでも政長を庇(かば)うならば晴元自身を討つこともやむなし、という態度をとったのである。周囲の無用な反発を避けるためであり、長慶一流の政治センスが見て取れます。

そして、長慶は晴元に圧勝し京都に進軍すると、その座に取って代わったのです。

天下人への「成功モデル」
その後も長慶は躍進を続け、政治の中心である首都京都を支配し「天下人」と呼んでも差支えないほどの隆盛を極めていきます。その足跡を辿ると、いくつもの点で織田信長に先駆ける存在であったことが窺(うかが)える。

信長といえば、十五代将軍・足利義昭を追放して、自ら京都を支配し、室町幕府の幕を引いた人物として知られます。しかし、足利将軍を擁することなく、初めて幕府の本拠地である京都を自ら支配した男こそ、長慶だったのです。

細川晴元を退け、入京を果たした長慶に強烈に反発したのが、十三代将軍・足利義輝でした。両者の争いは約四年間に及びますが、天文二十二年(1553)に長慶が勝利して、義輝を五年間ほど近江朽木(くつき)(滋賀県高島市朽木)に追放します。

ここで、長慶が義輝に代わる足利一族を擁立せずに戦い、将軍を戴かない形で畿内を治めた点に注目しなければなりません。それまでは、将軍と敵対した勢力も、「幕府」という旧来の、秩序を否定する意志はなく、必ず別の足利一族を将軍候補として立てました。当時は上杉謙信や北条氏康も名目上は古河公方足利氏を立てて戦っており、後には織田信長や毛利輝元も足利義昭を擁します。それが常識だったのです。

しかし長慶は、「もはや足利将軍家は必要ない」という革新的な考えを抱いていたのです。

もちろん長慶とて、当初から幕府は不要と考えていた訳ではありません。長慶と義輝が干戈(かんか)を交えている間、幕臣にも「長慶と争うべきではない」と唱える者もおり、長慶もそれに応える形でたびたび義輝と和睦しています。ところが、義輝は度々それを勝手に破棄し、長慶の暗殺を計画しました。そんなことを繰り返すうちに長慶は、「もはや将軍家に統治能力はない」と見限ったのです。

また、天皇、公家や寺社、さらには畿内の都市や村々が長慶を支持したことも、「自らの手で畿内を治める」決意を固める要因となりました。将軍義輝を追放していた時のことですが、正親町(おおぎまち)天皇は弘治四年(1598)2月、義輝ではなく、長慶と相談し永禄に改元しています。天皇が足利将軍家の権威を否定した一大事ですが、これも義輝ではなく、長慶こそが真の実力者であるという世間の風潮、空気を受けてのものでしょう。

永禄年間になると、長慶は越前の朝倉氏や伊勢の北畠氏、また中国の毛利氏などと、各方面で鍔(つば)迫り合いを始める。三好氏の全盛期の勢力範囲は、阿波・讃岐・淡路・摂津・山城・河内・和泉・大和・丹羽の九ヵ国と、伊予・播磨・若狭・丹後の四ヶ国の一部に及びました。これは、武田氏や上杉氏、毛利氏を上回る規模です。

かくして長慶は幕府という従来の体制を乗り越えて、「三好政権」を築くに至るのである。この点から長慶は、「日本の統治者=天下人(実態としては畿内を治める中央政権)と捉えられたのでしょう。なお、後の信長も義昭を追放すると天皇と相談して天正に改元し、「織田政権」の成立を目指します。

長慶も信長も改元を利用し、将軍に代わる首都の支配者であることを全国に知らしめ、畿内から各地へ領国拡大に励みます。

では、なぜ長慶と信長は日本全国へと目を向けることができたのでしょうかー。 それについては、経済基盤を抜きにしては語れませんが、この点でも長慶は、大きな視野の政策を行なっています。

当時、関西圏の大名にとって、大阪湾を支配して流通拠点を押さえることは至上命題でした。その中で長慶は、独自のルートを確立しています。

すなわち、法華宗日隆門流、臨済宗大徳寺派、そしてキリスト教の三つです。京都と尼崎に本山、堺に末寺頭がある法華宗日隆門流は、末寺の種子島を通じて、琉球や屋久島とのパイプを持っていました。長慶が建立した大徳寺末の南宗寺は当時の「貿易センター」ともいうべき堺にあり、豪商や琉球の禅僧とのコネクションがありました(現在、長慶の銅像が建っています)。さらに長慶はキリスト教を積極的に保護し、家臣の子弟からは、キリシタン武将として有名な高山右近や内藤如安が生まれます。これらのルートを通じて、ヨーロッパ人や、石見銀山の銀で沸き返り、大きく変化する東アジア海域との交易を目論み、経済的地盤を固めるのです。当時、海外との独自の流通システムを構想したのは、九州の大名を除けば長慶くらいであったでしょう。

同時に長慶は、海外との交易で鉄砲も多く入手しました。鉄砲といえば、長篠の合戦のイメージもあり、信長の専売特許のように思われがちですが、史料によると、長慶は義輝との戦いですでに鉄砲を戦場で用いています。これも信長に先駆けているのはもちろん、戦国時代において早い使用例です。

信長からすれば、こうした長慶の手腕はひとつの「成功モデル」であったでしょう。信長は、堺をはじめ流通拠点の獲得にこだわりました。長慶の活躍から経済力の重要性を悟り、その経済力で莫大な数の鉄砲を揃え、軍事力を増強したのです。そのためか、江戸時代には、信長が長慶に惚れ、尾張を献上するので家臣にして欲しいと頼み込んだという話が創作されました。

「諸人之を仰ぐこと北斗泰山」
畿内を制圧し、全国を睨んだ長慶が永禄3年(1560)に本拠としたのが、河内の飯盛城(大阪府大東市・四條畷市)でした。飯盛山に登ると、なぜこの城を長慶が居城としたのかがよく分かります。現在、「飯盛山史蹟碑」が建つ場所からは、大阪や堺の市街のみならず、将軍義輝がいた京都方面を遥かに見下ろすことができます。 近年の研究で、長慶がこの地を、しかも山城を居城に選んだのは、領国の人々から「仰ぎ見られる」ことで権威を誇示したとの指摘があります。将軍義輝が肉眼で見たかはともかく、幕府の使者が飯盛城を訪れる際に見上げなければならない状況をつくり、両者の力関係を示す意図があったのかもしれません。

さらに言えば、飯盛城の特徴は多くの石垣が用いられた点にあります。今に残る石垣は、ほとんどが京都側である北東にります。これも、京都方面から石垣を望見させ、飯盛城の威容を見せつけることを意図した可能性があるでしょう。信長の安土城は、壮麗な天守を上げるなどして、従来の「守る城」から「見せる城」へと意識を変換した点で革新的とされます。しかし長慶は、飯盛城ですでに「見せる城」を実現していたのです。

ところがー飯盛城に本拠を移した4年後の永禄7年(1564)、長慶は43歳の若さで病死しました。長慶は唯一の嫡子ちゃくし義興よしおきを前年に亡くしており(享年二十二)、三好家は後継者問題で衰退します。しくも、この点も信長亡き後の織田家に似ています。

とはいえ、三好長慶が戦国時代において大きな役割を果たしたことは疑いようがありません。長慶は権力や軍事力を振りかざすだけでなく、「足利将軍家が絶対的なトップである」という当時の常識に疑問を投げかけました。そんな長慶という革命の先駆者がいたからこそ、信長が続き、さらには秀吉、家康とつながっていくのです。

「諸人これを仰ぐこと北斗泰山ほくとたいざん

長慶は自身の三回忌において、そう讃えられました。誰もが北極星や中国の名山・泰山を仰ぎ見るように彼を尊敬した、という意味です。その中でも長慶を最も尊敬したのが、長慶と同じ年に生まれ、南宗寺で修行し、長慶の菩提寺・大徳寺聚光院じゅこういんを自らの墓所とした茶聖・千利休でしょう。三好長慶という信長に先駆けた男がいたことに、今こそ目を向けるべきではないでしょうか。

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