宗教的な空間!?飯盛城跡の御体塚曲輪
飯盛城跡は、四條畷市と大東市にまたがる飯盛山の山頂にあり、戦国時代に三好長慶が居城としたことで知られ令和3年10月11日に国史跡に指定されました。
その規模は南北約700メートル・東西約400メートルを測り、石垣をめぐらせた西日本有数の巨大山城です。また城内には、多くの曲輪や堀切・土橋といった場所が良好な状態で残っています。

三好長慶は、この城を拠点に五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の一帯を統治し、室町幕府の政治を動かしました。この城を拠点に室町幕府の政治を動かし、近年、織田信長に先駆けての天下人として評価されています。長慶は、城中で連歌(れんが)の会を開催するなど文化人でもありました。
長慶は城下でのキリスト教布教を許可し、73名の家臣が城中で洗礼を受けたことは、『河内キリシタン』が繁栄する契機となりました。1564年(永禄7年)に42歳で没し、その死は3年の間秘められ、城内の御体塚曲輪(ごたいづかくるわ)に仮埋葬したと伝えられます。

御体塚(ごたいづか)と呼ばれる曲輪の発掘調査では、石組み基礎構造の建物の一部を確認し、その東で神社などで類例のある台付きの灯明皿など特殊な遺物がみつかりました。この曲輪は宗教的な空間で、石組み基礎の建物は神社社殿など特殊なものだったのかもしれません。

