日本最古 「田原レイマン墓碑」資料一致は唯一のもの
2002年に三好長慶の居城である飯盛城の支城であった田原城主の菩提寺である千光寺跡から田原礼幡のキリシタン墓碑が発見されました。
この墓碑には、十字架の下に『天正九年 辛巳 礼幡 八月七日』と刻まれています。「礼幡」は洗礼名で、「レイマン」と読みます。
戦国時代末期の永禄3年(1560)に飯盛城へ入城した三好長慶は、キリスト教の布教を許可してキリシタンの保護を命じます。
永禄7年(1564)には、飯盛城で2度にわたり、三箇城主三箇サンチョ(大東市)、池田教正シメアン(後の若江・八尾城主)など73名の家臣が洗礼を受けました。その後「河内キリシタン」が繁栄していきます。
天正2年(1574)のルイス・フロイスの書簡に「田原の城主がキリシタンに改宗したこと」、天正3年(1575)のルイス・フロイスの書簡に「三箇マンショや結城ジョアンといった河内のキリシタンとともに田原レイマンが相国寺で織田信長に拝謁した」ことが記されており、その人物が田原城主である「田原礼幡(れいまん)」です。国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最古のもので、文献史料と発掘資料が一致する唯一のものです。
※墓碑は四條畷市歴史民俗資料館で常設展示
