だいとう学テキスト編集委員今村氏インタビュー「鐘にある十文字の傷のなぞ」

大東市・四條畷市

だいとう学テキスト編集委員
郷土歴史研究家 
今村與志雄  

大東市報平成18(2006)年9月より

第2巻「近世の三箇キリシタン」

鐘にある十文字の傷のなぞ

「だいとう学」の編集長ななり、取材活動中に多くの人々に出会い、さまざまな意見に触れてきましたが、中でも野崎教会の神田牧師の話は大変興味深いものでした。

神田牧師は、「野崎まいり」が実は隠れキリタンの行事だったという仮説を立てているのですが、その根拠の一つが野崎観音にある鐘の中の十文字の傷です。

また、飯盛山に居城を構え、河内キリシタンを保護した三好長慶の菩提寺の一つでもある龍尾寺の鐘にも、十文字の傷が入っています。

ただの鋳造の傷だといえばそれまでですが、普通鋳造にそのような傷が入ることはないそうです。わたしはこれまでさまざまな寺院で鐘を見てきましたが、他にそのような傷が入っているものは見つかりませんでした。

神田牧師がもう一つ注目しているのが、野崎まいりの期間です。今の野崎まいりは5月1日からですが、本来は4月1日から8日ぐらいのお釈迦様誕生の花祭りの期間だったそうです。しかし、この4月というのはキリストの復活の月でもあるのです。

そうしたことを踏まえて、神田牧師は野崎まいりが隠れキリシタンの行事だったと証明しようとしていますが、河内キリシタンの中心地だった飯盛城は織田信長に、三箇城は豊臣秀吉に破壊され、現在大東市には当時の様子を伝えられるものはほとんど残っていません。しかし、わずかに残された形跡を辿り、あれこれと想像して当時を偲ぶことに歴史のロマンを感じます。

テキスト概要
戦国時代、大東市域はヨーロッパにまでその名を伝えられた「河内キリシタン」の中心地でした。当時、この地では三好長慶が飯盛城を構え、その西には拠点の一つである三箇城がありました。城主の三箇サンチョは自らキリシタンとなり、城下には数千人ものキリシタンが暮らしたといいます。現在では「幻の城」といわれる三箇城と三箇キリシタンの活動を描かれています。

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