あとがき

河内キリシタン人物伝

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。

河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著

あとがき

この本を書いている最中にビッグニュースが入りました。朝日新聞の見出しは、『国内最古のキリシタン墓碑』と記され、さらに「日本最古と見られる安土・桃山時代のキリシタン墓碑が大阪府四条畷市内で見つかった……墓碑には、国内で最も古いとされた同府八尾市内のキリシタン墓碑より一年古い没年『天正九年』(一五八一年)が刻まれ、十字架とともに被葬者名「礼幡」も彫られている」(二〇〇二年三月七日付)と書かれていました。私はさっそく市の歴史民俗資料館に行って、展示されている田原家菩提寺の境内の地下三十センチから発掘された「礼幡」の墓碑を見に行きました。テレビや新聞報道での問い合わせの電話で館長さんは興奮しながら、「そうですよ。この町は一○○パーセントがキリシタンだったのですよ」と答えていた時、私も四百前のキリシタン時代がよみがえってきたようで感動しました。

なぜなら、『四条畷市史』の第六章で、「(外国の宣教師等の)文献では当地キリシタンの盛況を捉えられるに拘らず、現存する『砂の妙法寺』、そしてその付近からは、それらしい遺物、遺跡も見出されないまま、当地域が河内キリシタンの聖地であったことも忘れられようとしている」と記され、わずかに大正時代、向之町の農家の土蔵の中から発見された小さな青銅の十字架があるだけだったようです。

四条畷市史はさらに、「四百年の昔、秀吉に続くキリシタン弾圧からまぬがれるために、嘗っての信心から、クルス像を破棄し得ぬまま、これを土倉深く隠蔽した。江戸期に於いては、宣教師や信徒の密告の奨励、踏絵の制、寺請制度のもとで、当地域……ではその詮索は過酷を極め、隠れキリシタンとしての生存はおろか、逸話、伝説さえも根絶させたのであろう。この一箇のクルス像は、四百年の河内キリシタンの聖地としての砂岡山を中心とした当地域の面影を、その後の弾圧の激しさと、生きるためにはその信仰心、互いの語らいをも引き裂かないでは止まぬ身分制、封権社会の非情さを、私達に語りかける唯一の資料といえよう」と私の語りたい事を代弁してくれています。

このような中に、フロイス書簡に書かれている田原城主一族の「田原礼播」の墓碑が発見された事によって、さらなる確信を持つ事ができました。

日本人は「自分は仏教徒」と思っていますが、徳川二百六十年間のキリシタン弾圧のために有無を言わせず強制的に「仏教徒にさせられた」(宗門改め・寺請け制度)のです。司馬遼太郎は、「江戸時代、日本に憲法があったとすれば、『キリスト教は禁ず』の一条だけだつた」と同志社大学での講演で述べています。

日本人は、江戸時代に仏教が押し付けられ、明治以降は天皇を中心とした神の国が押し付けられ、終戦まで強制的に神社参拝をさせられてきました。

国家によって無理矢理に宗教が押し付けられたり、迫害されたりする事は健全な国家であるとはいえません。私たち日本人が「キリスト教」として学び伝えられてきたのは二百六十年間、キリスト教弾圧を国是にした国家、徳川幕府に都合の良いように洗脳した内容なのです。

「島原の乱」一つをとっても、これが過酷な税の取り立てによる絶望的な農民一揆であつた事は、徳川幕府が一番よく知っていました。乱の後、幕府は領主、松倉勝家を斬首にしました。切腹では無く斬首であった事がそれを物語っています。しかし、国民には「島原の乱はキリシタン一揆である」とする方が幕府には都合が良く、キリシタンは恐ろしいものだと宣伝したのです(司馬遼太郎著『街道を行く』一七参照)。

天草、島原に行けば、現在も季節を問わず、家々の玄関には「しめ縄」が飾ってあります。普通は正月の飾り付けですが、キリシタンで無い事をお上に示すために年中「しめ縄」を飾っているのです。日本人はいまだ、この呪縛が解けず、洗脳され続けているようです。

『四条畷市史』の中で、「当地域……ではキリシタンの詮索は過酷を極め、隠れキリシタンとしての生存はおろか、逸話、伝説さえも根絶させたのであろう」と言っていますが、この数年、「河内の隠れキリシタン」を研究して、その結果をまとめて近々、『野崎観音の謎』と題して出版しようと思っています。(二〇〇二年クリスマスを前にして)

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