(12)近畿最後の宣教師、ディオゴ結城了雪

河内キリシタン人物伝

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。

河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著

(12) 近畿最後の宣教師、ディオゴ結城了雪

近畿キリシタン最後の宣教師

彼が歴史に登場するのは一五八六年に大坂城下にあったセミナリオの名簿からです。

イエズス会の名簿に、彼はいつも「ディオゴ結城『阿波国出身』」と記入しています。同じく阿波の国の出身で三好長慶に仕え、飯盛城で洗礼を受けた三木半太夫の子、三木パウロと同じように、ディオゴ結城も父と共に河内の飯盛城下で信仰を育んでいたと思われます。

彼が大坂城下のセミナリオで学んでいた時、同期生に三木パウロもいました。

当時、三箇教会はつぶされ、美しい河内岡山の砂教会も取り壊される寸前に大坂城下の教会として移築され、河内キリシタンたちはこの教会で信仰の火を燃やし続けていました。

コエリヨが大坂城に来て豊臣秀吉に謁見を許された時、大坂城内を、秀吉の案内で寝室はもとよりくまなく見物する事ができました。その頃、三木パウロと、デイオゴ結城はイエズス会に入会を許されました。

院長はおそらくオルガンチノ宣教師であり、彼らの同級生は三箇アントニオ、伊地智、斑鳩、三木、結城など、河内キリシタンの子弟の名が見られます。

その中でもディオゴ結城は十二歳で最も若い神学生だと思われます。

九州有馬のセミナリヨに移る

次の年には、秀吉の「伴天連追放令」によって、長崎島原の有馬セミナリオに移るようになります。平戸、長崎、有馬と九州を転々とし、さらに一五八九年一月に有馬の日野江城裏山の隠れた村、八良尾にセミナリヨが移り、また一年後、加津佐に、また八良尾にと、島原半島を転々として帰って来ます。

このような時期に少年使節としてローマに渡った少年が成長して帰国し、デイオゴ結城たちの心は燃やされました。

デイオゴ結城は二十一歳の時、天草の修練院に入る十名に選ばれました。

二年後、長崎の「二十六聖人の殉教」があり、彼の友人であった三木パウロとヨハネ五島が西坂で殺されます。このような状況の中で修練院は長崎に移されました。

彼らが長崎に着いた時には、二十六聖人の殉教の事が噂になっており、西坂にはまだ十字架が残っていたそうです。

デイオゴ結城は苦難の道を歩む決心をしてイエズス会の修道士となる誓願をしました。

マカオでの三年の学び

ディオゴ結城は少年使節として活躍した先輩の中浦ジュリアンや伊東マンショたちと共にマカオに出発し、デイオゴ結城は三年間、倫理学を学びました。

日本に帰国して宣教活動を開始する

彼は一六〇四年にマカオから帰国し、有馬のセミナリオでラテン語の教師として教えながら、追害の暗雲が広がる日本宣教の準備をしていました。

一六〇七年に京都伏見の副牧師として就任し、次の年には彼の郷里である阿波へ、伝道旅行を試みます。彼はすでに隠居をしていた老大名、蜂須賀家政、その子、至鎮に数回訪問して伝道をしました。蜂須賀家政は大坂城の教会で洗礼を受けていましたが、しばらくして阿波に帰ってしまいました。宣教師が通るルートでないためにデイオゴ結城が訪問した時には蜂須賀家政の信仰が薄れていたそうです。デイオゴ結城の働きで彼は、再び信仰を持ち続ける事を約束しました。

一六一四年、徳川家康の「キリシタン禁教令」によって宣教師と共に高山右近、内藤ジョアン、三箇アントニオの弟、三箇マチアスらはマニラに追放になりました。

その中にデイオゴ結城も含まれていました。

迫害の日本で猛烈に伝道活動をした男

ディオゴ結城はマニラで司祭になりました。一六一六年に家康は死に、二代将軍秀忠はキリシタン弾圧を強力に進めました。このような最悪の状況下にあってディオゴ結城は迫害下の日本に帰り、京都で伝道活動を始めました。

一六一七年に彼は潜伏宣教師として、トルレス宣教師と京阪地区で伝道し、北国を初めて訪問し、さらに津軽に追放されて重労働を科せられていた金沢と京都のキリシタンたちを訪問しています。

京都では「ダイウス町」に住んでいたキリシタンたちが捕らえられ、一六一九年に秀忠が伏見城に来た時、その五十五、六名が六条河原で火あぶりの殉教を遂げました。その中にはテクラ橋本と彼女の幼い子供たち五名が含まれています。テクラ母子の殉教した様子は多くの者に感動を与え、バチカンのプレスセンターに、中山正美氏の感動的な絵が掲げられています。

デイオゴ結城はその目撃者であり、残忍な日本のキリシタン迫害を報告しています。

この頃、デイオゴ結城は、京都から伏見と隣国の近江、津の国、丹波、美濃、尾張と、さらに北国ヘキリシタンたちを励ますために、迫害と捕縛の危険の中、宣教の旅をしました。

また、一六二六年頃、江戸、佐渡、金沢を通り、潜伏しているキリシタンたちを励まして帰って来ました。

殉教者ディオゴ結城了雪

一六三六年、日本にはイエズス会員が五名しか残っていませんでした。そのような中にデイオゴ結城、マンショ小西が近畿のキリシタンの指導者として残り、潜伏しながら活躍していました。

デイオゴ結城は、一六三六年に大坂で捕らえられ、誰にも迷惑がかからないように、奉行には、「二十年前から森に住み、草や木の実を食べたりしていました」と告白し、大坂で最も過酷な穴吊りの刑で逆さに吊されて、三日後に六十一歳で殉教しました。

デイオゴ結城の殉教によって、「河内キリシタン」の末喬は、キリシタン史の文献上からは消滅してしまったのです。

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