当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。
河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著
(10)結城弥平次ジョルジ 下
小西行長の右腕となった結城弥平次も肥後の宇土城に移りました。弥平次は一五八八年に行長から宇土の東、日本神話のふる里である宮崎県、高千穂の峰との中間にある、熊本県矢部の愛藤寺城をまかされました。この愛藤寺城のある矢部は、北に行けば阿蘇、東に行くと高千穂の峰、南に行けば五木の子守唄の五木村がある山奥の村です。
結城弥平次は、この山深い矢部で四千人の村人を信仰に導き、矢部に宣教師も常駐する程の大きなキリシタン集団を形成しました。
今年の夏、私は結城弥平次の足跡を訪ねて矢部から、島原の金山城まで行きました。
彼のゆかりの愛藤寺城をさがし、車を停めて村の人に道を尋ねると、「この人に案内してもらいなさい」と、横にいた一人の優しそうな老人を紹介してくださいました。中村さんという愛藤寺城に最も近い所に家がある方が、親切に愛藤寺城跡を案内してくださいました。
私は結城弥平次が、この山奥の城で四千人の村人を信仰に導き、この山奥で賛美歌が歌われ、祈りがささげられた事を思い感動しました。「河内キリシタン」が、このような山奥で花開いたことに頭が下がりました。
弥平次は室津の一件以来、小西行長から絶対的な信頼を勝ち取っていました。
朝鮮出兵の時、穏健派の行長は、武闘派の加藤清正と共に秀吉軍のリーダーとして朝鮮に出兵したので、弥平次が肥後の南半分を行長に代わり統治し、宇土城も彼が城代家老として留守を守っていました。
一六〇〇年に、関ヶ原の合戦で、小西行長が西軍のリーダーとして捕らえられ、京都で石田三成と共に処刑されたため、宇土城は大混乱に陥りました。
弥平次の愛藤寺城は加藤清正の手に渡り、彼も一時は一武士として清正に仕えていましたが、熱心な日蓮宗の信者である清正による迫害の嵐が胆後全体に吹き荒れるようになりました。
その時(一六〇二年)、結城弥平次は肥前(長崎)の島原半島を治めていたキリシタン大名の有馬晴信に仕えるようになり、島原半島の北の付け根を守る金山城(別名、結城城)の城主として一六一三年に有馬晴信の息子、直純から追放されるまで留まっていました。
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