(9)小西行長の信仰と行動

河内キリシタン人物伝

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。

河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著

(九)  小西行長の信仰と行動

一五八七年、豊臣秀吉が突然、「伴天連追放令」を出す事によって京都の南蛮寺(教会堂)

を始め各地の教会堂は破壊されてしまいました。

オルガンチノ宣教師たちは、秀吉の水軍司令官であった小西行長が支配している播磨の室津に逃れましたが、小西行長以下、彼の身内の者は秀吉の怒りが自分たちに及ぶことを恐れて宣教師を自分たちの家に入れぬようにしました。また早く立ち去らないので激怒したのです。小西行長も駆けつけますが、それは信仰のためではなく宣教師たちを室津から追い出すためでした。

フロイスの表現では、「彼(小西行長)は到着した最初の日に、室津の入たちのもとに行

き、彼らにひどく毒され、その顔は地獄から来た人の相を帯びていた」ようです。

フロイスにかなり強く言われますが、行長は泣き出さんばかりでしたが、心は固く閉ざしていました。あの河内岡山城主の結城ジョアンに仕え、ジョアンの死後、砂の美しい教会を高山右近と共に大坂城下に移築するのに貢献をした結城弥平次が、その時、行長の部屋に訪ねて来ました。

弥平次は彼と三時間ほど二人きりで話をしました。部屋から出て来ると行長は別人のように信仰深い人のようになっていたそうです。

行長は、迫害の直中にいる宣教師を助け、結城弥平次の身も守り隠れ家を提供します。

また淡路島から小西行長の支配する小豆島に身を隠していた高山右近も室津に合流し、さらに三箇頼照の息子のマンショもやって来ました。三箇頼照も、堺の茶人であった日比屋了珪、さらに高山右近の父飛騨守も来ました。三箇頼照は宣教師を守るために、自ら宣教師のガウンを着て船頭をかく乱させたのもこの時です。河内、摂津のキリシタンたちが共に集まり、秀吉の弾圧と迫害の中で共に信仰を守り通すことを誓い合ったと思われます。

室津での出来事は、河内、摂津のキリシタンたちが日本のキリシタン信仰の中心として活躍する事を誓い合った記念するべき時でした。

次の年、豊臣秀吉は小西行長に肥後(熊本)南半分を与えます。その時に結城弥平次、三箇マンショ、河内長野の烏帽子形城の領主だった伊地智文太夫も信仰を守り神の栄光を現すためにキリシタン大名の小西行長に従って肥後国(熊本)の宇土城に移り住みます。

キリシタンについて語られる時、九州のキリシタンたちが常に中心でした。平戸、長崎、島原、天草などがキリシタン史の舞台になっています、九州のキリシタン大名が南蛮貿易の利害と結びつき、ポルトガルやスペインと結びついて日本侵略の手先のように思われている間違った一方的な歴史観に私は疑問を抱くようになりました。

「領主が強制的に無理矢理キリシタンにならせたならば、本当にあれだけの世界史規模の殉教者が出るのだろうか」と素朴な疑問を持ちました。

特に近畿のキリシタンは貿易などの物質的な利益は皆無でしたが、高山右近、三箇頼照や結城弥平次らは近畿地方の教会を守り、宣教の働きをバックアップするために多大の財的支援をしながら、信仰を堅く守っていました。

近畿だけでなく、九州の大名すらも単に貿易の利害のためにキリシタン信仰を受け入れたように言われますが、彼らは自分がキリシタンになる事によって、必ず、身内や親戚、部下たちの中に仏教などの反対勢力が興り、お家分裂の危機に直面します。戦国時代に内部分裂は非常に危険を伴います。

実際、長崎の大村氏がキリシタンを受け入れた時、反対派は貿易港として開いた横瀬浦を二年目には襲撃、破壊しました。大村氏はやむなく福田港、さらに長崎港を開港しました。「内外の資料により、戦乱は、武雄の後藤氏(大村氏の義理の弟)の野望に反キリシタンの家臣僧侶等が加わった結果であることが明らかであろう」(『大村純忠伝』)と松田毅一氏は述べています。

また、ザビエルと出会いながらも二十七年後に洗礼を受けた大友宗麟のように、妻が奈多神社の神官の娘であった事もあり、戦国時代にあって、貿易の利害だけで領主が洗礼を受けるような単純なものではありませんでした。

信仰的な河内・摂津キリシタンたちが、小西行長と共に九州に移り住んだので、九州のキリシタンは農民や町民だけでなく指導者層にも強い影響を及ぼすようになりました。

関ヶ原の合戦では、小西行長が西軍のリーダーとして奮戦しますが、捕らえられて京都の六条河原で石田三成らと共に処刑されました。その結果、行長に仕えていた者たちの多くは天草、島原地方に土着して信仰の指導的な働きを成したと思われます。

小西行長の父、立佐は畿内で最初にキリシタンになった一人で、堺政所を務め、堺近郊にハンセン病の病院を建て慈善事業を行いました。行長の兄は如清といい、室津、堺の奉行となり、父のハンセン病院の世話をしました。そして、行長の娘は対馬の宗氏と結婚したマリヤで、おそらくデイオゴ結城了雪と共に京阪地区で最後の宣教師として働き、殉教した小西マンショは行長の孫でマリヤの子であったと思われます。

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