(8)キリシタン迫害の始まり秀吉の「伴天連追放令」

河内キリシタン人物伝

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。

河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著

(8) キリシタン迫害の始まり秀吉の 「伴天連追放令」

薩摩の島津討伐のために秀吉は軍を九州に進め、島津氏を恭順させた帰路に八代でコエリヨと会談をしました。その時、秀吉は「予の成功を忘れるでないぞ」と言い、さらに彼は「日本を平定し秩序立てたうえは、大量の船舶を仕立て、中国に渡り、征服する決意である」と語りました。秀吉が博多湾の箱崎八幡宮でしばらく逗留する事を聞き、コエリヨはフスタ船を博多湾に行かせ秀吉を待っていました。

七月十九日、博多湾で船遊びをしていた秀吉は、南蛮船を見つけて船に乗り込んで来ました。準備もできていませんでしたが、秀吉はフスタ船の大砲を撃たせたり、船底にまで降りて船内をくまなく見学しました。船から降りて博多の町の区割りを命じている所で、宣教師が教会を建てたいと願い出ると、秀吉は快く良い地を選ぶように言っています。

突然の伴天連追放令と迫害

高山右近は二十二日にコエリヨを訪ねて、やがて大変な迫害が起こる事を知らせました。

「キリシタンの頭上には、やがて暴風が襲来しようとしています。聖堂は破壊され、宣教師たちは追放され、信者は殺されるでしょう」と心配げに語り、嘆息をつきました。右近はコエリョと宣教師たちに、「神の働きはつねに悪魔から妨害されるものなので、私には間もなく悪魔による大いなる妨害と反撃が始まるように思えてなりません。宣教師たちも私たちにしても、そうした事態に対して十分な備えが必要です」と語りました(フロイス「日本史」)。

高山右近の危惧していた事態は、二十四日夜、右近自身の上に最初に起こりました。

秀吉の使者が右近の宿舎に来て、「今後とも予に仕えようと思うなら、キリシタンの信仰を捨てよ」と言う秀吉のメッセ!ジが伝えられました。右近は明石六万石の大名の座を取るか、キリシタン信仰を取るかを迫られたのです。

右近は使者に、「私は日常、身魂を傾けて太閤様にお仕えして参りました。今といえども、太閤様のおためなら、脳髄を砕き、土まみれになってもいといません。ただ一つの事以外には。信仰を捨てて、神に背けとの仰せは、たとえ右近の全財産、生命にかけても従うことはできないのです。それは神との一致こそ我々人間がこの世に生まれてきた唯一の目的であり、生活の目標でありますから、神に背くことは人間自らの存在意義を抹殺することになります。

キリシタン宗門に入った人はこのことを皆、よく心得ているのです」とのメッセージを秀吉に伝えるように言いました。

この後、彼は別室で独りで祈ります。教会と自分に襲いかかろうとしている迫害に対して、よく耐えて信仰を守り抜くことができるための力を神に祈り求めました。

そしてキリシタンである家臣の武将たちを集めて、「私が領地財産を失うのは惜しくはなく、追放されることも驚くことではありません。ただ悲しく思うのは、諸君が今まで私に仕えてくれた忠誠に報いることのできないことと、これからの迫害によって諸君が受ける苦難についてのことです。けれども、もし諸君が信仰さえ堅持してくれるなら、私が報いることのできなかったことを神が私よりも多く報いてくださるでしょう」と言い、右近はためらうことなく信仰を選び、秀吉幕下の大名の地位と、明石六万石の知行とを捨てて秀吉のもとから去って行きました。

右近の使者が帰る頃、フスタ船で眠っていた宣教師コエリヨとフロイスたちのもとにも使者がやって来て、「ただちに尋問を受けるために下船して、返答するように」と、海辺の宿舎に連行し、四つの質問を宣教師たちにしました。

一番目は、なぜお前たちは熱心に邪宗門を日本で説くのか。二番目は、なぜ僧侶たちと仲良くしないのか。三番目は、なぜ人間のために大切な牛を食用にするのか。四番目は、なぜ南蛮人が多数の日本人を奴隷として買って海外に売り飛ばすのか、と尋問をしました。

秀吉の命令として「二十日以内に身辺整理をして国外退去せよ」という宣告が出されました。

平戸にある松浦史料博物館には、この時の「伴天連追放令」と同じ物が展示されています。

そこに書かれている、「日本は神国たるところキリシタン国より邪法を授け候儀、はなはだもってしかるべからずそうろう事」で始まる秀吉の「伴天連追放令」はキリシタン迫害と弾圧の狼煙となったのです。

「権力者は手懐けられないものは破壊する」との言葉に目がとまりました。

秀吉は権力者としてキリシタンが手懐けられているうちは迫害はしませんでしたが、この時点で発火されて彼の破壊行動が起きたと思われます。

「なぜ」と、「やはり」について

そこで私はキリシタン迫害について語りたいと思います。おそらくこの「伴天連追放令」によって、同じように弾圧を受けた高山右近とコエリヨ、フロイス宣教師たちの受け止め方は異なっていると思います。一言で言えば、コエリヨとフロイスは「なぜ」であり、高山右近は「やはり」であったと表現することができるでしょう。

高山右近は、二十二日にコエリョのもとに来て「迫害を警告」しました。その警告に対してコエリヨはその根拠を求めました。おそらく右近は「彼らはわかっていない」と思ったことでしょう。彼らのような人物に説明しても理解してもらえないと失望したと思います。

宣教というのは文化と文化、思想と思想がその国の風土の中でぶつかり合う事だと思います。私は神学校の卒業論文を『日本風土に於ける土着の方法』と題して書きましたが、日本に福音が土着する方法として、武田清子氏の土着方法の型に学びました。キリシタンは日本文化に対して「対決型」であり、明治以後に入ってきたプロテスタントは日本文化に対して「接木型」でありました。そして「対決型」の結果は迫害に終わり、「接木型」の行き着く先は埋没に終わる事を学び、いかに日本風土の中で宣教を行うべきかを考えました。

神主の孫であり、また戦前、昭和天皇の前で真言宗の御前講義をした僧侶の甥にあたる私が、このような日本の背景と風土の中でクリスチャンとして四十数年間、信仰を持ち続けてきました。

その結果、「この複雑な日本の文化や風土を理解しないで、この土地を荒らすような宣教活動をしていないだろうか」と自ら反省をしています。だから高山右近の気持ちがよく理解できます。また『沈黙』で遠藤周作氏は「この国は泥沼だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい泥沼だった。どんな苗もその地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れて行く。我々はこの泥沼にキリスト教という苗を植えてしまった」と語っています。

このことを理解した上で宣教活動をしている牧師や宣教師がどれほどいるでしょうか。

私は「日本は宣教師の墓場である」と言って日本を去った宣教師を何人も知っています。また、遠藤周作氏のように「不毛の泥沼にキリスト教という苗を植えている」ような無力感にさいなまれている牧師、伝道師に出会いました。私自身もその一人であったかもわかりません。

しかし、卒業論文を書くために「キリシタンの日本風土での対決」を学んだ時、考えたのは弾圧、迫害の結果に終わったとはいえ、七十五万入もの信徒ができ、二十万人も、三十万人もが殉教し、これだけ命懸けでイエスを愛した国がローマ以外にあっただろうか、弾圧と迫害の中で宣教師も牧師もいないのに二百五十年もの間、信仰を守り通した国があっただろうか、ということです。サタンはこの素晴らしい国にイエスの血であがないとられた神の教会が形成され成長していくのが恐ろしいため、ありとあらゆる国家権力、国家機構を通して妨げてきました。ここに日本宣教の厳しさと共に、素晴らしい希望の光が見えてきます。

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