(7)結城弥平次ジョルジ 上 河内キリシタンの落日と広がり

河内キリシタン人物伝

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。

河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著

(7) 結城弥平次ジョルジ 上 河内キリシタンの落日と広がり

結城山城守忠正のこと

結城弥平次は、奈良でロレンソによって信仰を持った結城山城守忠正の甥にあたる人物です。

結城忠正は、下克上で有名な松永久秀に仕えていました。忠正は学問及び交霊術において著名で、偉大な剣術家、書家であり、さらに天文学にも深く通じ、実に多くの才能を持っていた人物でした。

彼は信仰を持つ前のパウロのように、一五六三年、近畿におけるキリスト教迫害の先鋒として比叡山の反キリシタン勢力からキリシタンを論破するように頼まれていました。松永久秀も彼にキリシタン追放を任せていました。

ちょうどその頃、ディオゴという都のキリシタンが久秀に訴え出るところがあって、

奈良を訪れていました。その担当者が結城弥平次の叔父の結城忠正だったのです。

忠正はデイオゴに、「汝の師匠なる天竺人は、国に害を及ぼす者だから、予が五畿内から追放し、教会も家財も没収しようと決心していることを承知しておるか」と尋ねました。

ディオゴは、「この世のことはすべて、全能の神が計画し、決め給うことでなければ起こり得ません」と言い、さらに「天地の主であり、現世において最高の支配を司り給うのみならず、来世においても同様であります。また、神は人類の救い主、自然の造り王、世界ならびに見えるもの、見えざるものの創造者であらせられます」と答えました。

そして宗教討論では自分以上に優る者は誰もいないと思った彼は、ディオゴ並びにその従者と討論し始めました。

ディオゴたちは返答を始めるに先立ち、謙虚な態度で、「キリシタンになってこのかた、二、三年間に神のことについて理解したことを申し上げたい」と前置きして、キリスト教の神について語りました。

ディオゴの説明を聞いて結城殿は、手で畳を打ち、まるで深い眠りから覚めたかのように額をさすり、讃嘆の言葉を発してやみませんでした。それまでは、宣教師や教会および神の教えに対して憎しみに満ち、狂暴な獅子のようでしたが、今や突然打って変わり、「御身らが申すとおりだから、予はキリシタンになりたいと思う。いかが致せばよかろう」と言いました。

デイオゴは忠正に対して堺にいる宣教師のアドバイスを受けるように提案しました。

その要請に応じ、ロレンソ修道士はディオゴたちと共に奈良に向かいました。当時、奈良に公家で和漢の諸学に秀でた清原枝賢外記がいました(彼の娘は後に細川ガラシャに仕え宣教師の指導の下に彼女に洗礼を授けた清原マリヤ、「オイトの方」です)。彼は松永久秀から親友の結城忠正、高山飛騨守と共に宣教師を論破するように託されていました。

高山飛騨守は、大和沢城に出かけていたので、結城忠正と清原枝賢がロレンソから聖書の話を学び、キリシタンになる決心をしました。洗礼を授けるために堺から宣教師ビレラが奈良にやって来ました。「結城殿と外記殿は、もう一度説教を聞き、聴聞した最高至上の教えに満足し、洗礼を受けました」とフロイスは伝えています(フロイス『日本史』参照)。

結城忠正には三好長慶幕下の武士で優れた理性の持ち主であった長男がおり、ちょうど奈良にいて父と共に洗礼を受けました。

この場にいなかった高山右近の父、高山飛騨守は奈良市内の一軒家に二日二晩隠れ留まり、日夜神のことを聴きました。彼は異常な程に感銘し、ただちにそこで洗礼を受けました。

この時、父と共に洗礼を受けた四条畷岡山城主、結城左衛門尉は、結城弥平次の従兄弟

に当たります。河内岡山に帰った結城左衛門尉が河内にキリスト教を伝える切っ掛けとなりましたが、数年後に、彼は毒を盛られて殺されました。

左衛門尉の息子の結城ジョアンが父の後を継いで岡山城主になりました。ジョアンが幼かったので伯父に当たる結城弥平次が、彼の後見人になりました。

岡山城主、結城ジョアンは河内若江城、八尾城主のキリシタン大名池田丹後守教正の娘マルタと結婚し、河内キリシタンは信仰とキリシタン同士の血縁によって深く結ばれていきました。

河内での結城弥平次

先に、三木半太夫について語ったように、結城弥平次が門真市にある河内古橋砦で、四国勢に攻められて殺されそうになった時、三木半太夫が、「汝はキリシタンなるや」と尋ねた事を見ると、弥平次は一五六三年に飯盛城で洗礼を受けた七十三名ではなく、次の年ぐらいに信仰を持ったのではないかと思われます。

蛮勇の武将だった三木半太夫は四国に帰り、四国勢として戦国の四国、関西を歴戦していたようです。

結城弥平次は四条畷岡山城主、結城ジョアンを助け、岡山砂に立派な教会堂を建てるために貢献しました。また一五七六年に京都の『南蛮寺』と呼ばれる教会を建てるのに金銭的な支援だけでなく、四十名の職人を送り込み、自らも工事に参加して働きました。結城弥平次は京都の『南蛮寺』建築のために高山右近と共に最も働いた人物です。

一五八二年の「本能寺の変」の後、三箇殿は明智光秀に味方したため、三箇城は焼かれてしまいました。

三箇領は結城ジョアンに与えられましたが、二年後の一五八四年に、ジョアンも小牧長久手の戦いで戦死しました。そのため、前に述べたように、美しい砂の教会堂が異教徒の手に落ちるよりは新しく造られた大坂城に秀吉から土地をもらい受けて砂の教会堂を移築する事を計画しました。この時も高山右近と共に結城弥平次が活躍しています。

河内にある教会は、三箇が失われ、岡山砂地区が失われ、さらにジョアンが戦死したので妻のマルタは子供を連れて池田教正の所に帰って行きます。その時、池田丹後守教正は尾張花正に知行を受けて移りました。

結城弥平次、高山右近に仕える

主人を失った結城弥平次はしばらく、摂津高槻城の高山右近に仕えていたようです。

セスベデス宣教師の当時の記録では、「結城殿が死に、結城の家は絶えました。マルタ夫人と息子たちは彼女の父、丹後殿のもとに帰り健在です。弥平次殿は右近殿にお仕えする事になりました。彼は妻と共に元気で、以前同様、立派な僧者生活を送っていますと報告されています。

この次の年、秀吉は高山右近を高槻四万石の大名から、明石六万石の大名として移封しました。これは朝鮮に攻め込む布石の一つとしてなのか、毛利や九州勢から大坂を守る海の要としてなのか、それらのために明石の海岸に位置する明石船上城を建てたと思われます。実際、船上城跡に行くと、城から船が直接出撃できるように海に出る水路を見る事ができます。

秀吉が小西行長を海軍奉行として播州室津と小豆島に配置したのも、右近と共にキリシタン大名が協力して大坂城を守るための準備をしていたと思われます。

秀吉のキリシタンに対する絶対的な信頼と懐疑

豊臣秀吉とキリシタンとの関係について、この頃、天下を平定した秀吉はキリシタンに対して心が大きく揺れ動いていたと私は思っています。

その一つはキリシタンに対する絶対的な信頼です。信長時代、荒木村重が謀反を起こした時、さらに本能寺の変の後、山崎の合戦で明智光秀討伐の先鋒として高山右近が最前線の高槻城の城主として取った態度を見て、秀吉はキリシタンに対する絶対的な信頼を寄せたものと思われます。

これ以後、秀吉は右近を彼のボディーガード役の側近部隊の隊長として常に身近で用いています。下克上の時代に最も信頼できると思っていたのはキリシタンであったようです。

それを裏付ける話として、一五八六年五月四日にイエズス会の日本副管区長であったガスパル・コエリヨが大坂城に豊臣秀吉を訪問した時の宣教師の記録があります。

「秀吉は大坂城の中を案内し……隠し門を通っていろいろな説明をします。……さらに、

秀吉は、大坂城天守閣の中、平素は女の人しかいないところですから、コエリョがはじめて訪ねた時にも十三、四歳の少女が刀を担いで前を案内して行きました。

秀吉は宣教師たちと楽しい会話を続け、平素夫人と寝る場所、つまり北政所との寝室を見せたとのことです。」

本丸では多数の女性が秀吉に仕えていましたが、側室としてではなく実務者として多くのキリシタン女性も働いていました。

「宣教師を歓待したことについて関白は、城の中にいるキリシタンの婦人たちに、『御身らの師を予が手厚くもてなしたのに、なぜ御身らは予に感謝せぬか』とたしなめています。

また城内の女の人をキリシタンでなくても、マリヤとか、カタリナなどのキリスト教名をつけて呼ぶことを一つのならわしにしていました。それほどキリスト教に関しては、和気あいあいたるムードが大坂城内に漂っていたのです」と、この時の事を松田毅一氏は『南蛮太閤記』で紹介しています。

このように考えると、秀吉はキリシタンが最も安心できると信じきっていました。

松田毅一氏はさらに、「このように信頼していなければ、キリシタンの婦人たちを自分の周囲に置いたり、あるいはキリシタンの武将たちを要職に任ずるはずがありません。また大坂城内の秘密の蔵、秘密の門をくまなく宣教師たちに見せるはずもないのです。……いつ裏切られ殺されるかわからない世の中です。……『君主に忠実なれ!』という教えに忠実なキリシタンを側近に置いておくことは大いに賢明な策であったのでしょう」と述べています。

もう一つの心は、キリシタンに対する懐疑です。

以前、秀吉は信長がキリシタンの伴天連と呼ばれる宣教師とあまりにも親しく交わっている姿を見て忠告しました。その内容について『南蛮太平記』には、「宣教師たちは本当に清らかな気持ちで日本に来たのではなく、日本を征服するという下心を持って、いわばパイオニアとしてやってくるのだから注意しないといけないと言います。

それに対して信長は、彼らはあのように遠い国から、そのような企てをするだけの兵力を日本に派遣することはできない、と言って、秀吉の言い分を退けたということが、西洋の資料に残っています」と書かれています。

この事を通して、「秀吉は早くから西洋人の宣教師に対して、侵略の手先であるというような疑いの念を深く抱いていたことになるわけです」と松田毅一氏は同書で述べています。

私は、この懐疑心が、近畿キリシタン武将の分断という形になって、三箇殿は先に滅びますが、池田丹後守教正を美濃、尾張に移し、高山右近を明石に、堺の小西行長を播州室津や小豆島に移しています。

さらに、「伴天連追放令」以降になると大大名の小西行長や黒田官兵衛を九州へ、さらに蒲生氏郷は会津に移されています。

秀吉による懐疑心が増大したのはコエリヨが大坂城を訪れた時、彼との会談の後、急速に増したと思われます。

フロイスの『日本史』では、この会談で秀吉が朝鮮・中国を征服するためにコエリヨに、「十分に艤装した二隻の大型ナウ(船)を斡旋してもらいたい」と述べたようになっていますが、同席していたオルガンチノ宣教師によると、コエリヨの方から、「船をお世話しましょう」と言ったそうです。

このことについて、松田毅一氏は、「宣教師というものは、キリスト教の教えを広めるのが務めで、戦争のことについては関与すべきではなく、九州の戦争に秀吉の出動を願うとか、あるいはシナ(中国)の征服に自分たちが援助しましょうと言うべきではないというのがオルガンチノの考えなのですが、コエリヨはかなり積極的でした。……単にキリスト教を広めるだけではなく、軍事的にもかなり関わっているのではないかという疑いをもっていた人であるならば、このコエリョの態度が、その翌年に起きる重大事件の原因の一つであるとオルガンチノは考えたのです」(『南蛮太平記』)と述べています。

最初の宣教師ザビエルを始め深く活動しています。

巡察師バリニャーノもオルガンチノと同じように考え思慮深く活動しています。

これからは、迫害時代に入り、『河内キリシタン人物伝』も舞台が小西行長と共に九州に移っていきます。

結城弥平次は、堺出身の大名、小西行長の片腕として九州肥後宇土や、長崎で活躍します。

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