当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。
河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著
(6)河内で最も美しかった「砂の教会堂」
河内「砂の教会堂」物語
司馬遼太郎氏が豊臣氏が亡んだ「大坂冬・.夏の陣」を書こうとした時、中心になる人物が浮かばなかったので、その結果堅固な「大坂城」こそが主人公にすえられるべきだと考えて『城塞』という小説を書いたそうです。私は『河内キリシタン人物伝』を書きながら、不思議な変遷をたどった岡山「砂の教会」を主人公にして書いてみる事にしました。
結城左衛門尉と一五六三年
歴史を調べると、ある時代(ポイントになる時代)と、その時代にふさわしい人物が登場している事に気がつきます。たとえばルネッサンスの時代はレオナルド・ダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ等の天才的な芸術家が誕生しています。戦国時代の日本で信長、秀吉、家康などの天下人が誕生したのも同じ事です。
キリシタンを研究すると、ザビエルがキリスト教を伝えに来た一五四九年はもちろん大切ですが、一五六三年頃、一五八五年頃、一六一二年頃もポイントになる時代と言えます。
一五六三年、長崎の大村純忠が最初のキリシタン大名として洗礼を受けました。近畿では大和沢城主、高山飛騨守(高山右近の父)や、四条畷岡山城主・結城左衛門尉、大東三箇城主・三箇頼照、八尾、若江城主・池田丹後守、河内長野・烏帽子形城主、伊智地文太夫などが洗礼を受けてキリシタン大名が続々と誕生した時代です。
救われた結城左衛門尉は自分の城であった、飯盛城の出城、岡山城に近い砂の地に教会堂を建てました。最初に建てた「砂の教会」が手狭になり一五七七年頃、結城ジョアンが伯父の弥平次の手助けの下で美しい砂の教会堂を建てました。丘の上にある岡山城から直線の道が引かれ、城と教会が一直線で結ばれ、教会とお城が岡山の中心をなしていました。岡山城があった忍が丘の上には大きな十字架が建てられて町のシンボルとなっていました。
一五八一年に巡察師バリニヤーノ一行が堺に到着し、八尾、次いで三箇で沢山の食物の饗応歓迎を受け、新しく建った砂の会堂と宣教師館に一泊しました。
大坂城の教会として移築される
河内キリシタンにとって一五八二年は激変の年となりました。何故なら信長が本能寺で殺され、秀吉の時代に移行する時代だったからです。しかも三箇親子は光秀に味方して三箇城は滅び、一五八三年、結城ジョアンは秀吉の命令で国替えになり他国に移されました。
美しい砂の教会が、新しく来る領主によって異教徒の手に落ちるよりは、新しく建てられる大坂城に移築され、再び神の栄光を現す会堂として用いられるように河内のキリシタンたちは願いました。
高山右近や結城ジョアンらの努力で、砂の教会は天満橋近くに秀吉から土地を譲り受け、大坂の中心教会として再生しました。高台にある教会からは築城のために運び込まれる石材の運搬船が川をうめつくし、巨大な石垣の石を荷揚げする光景が見られたそうです。
続々と大名が救われる
一五八四年の小牧長久手の戦いに参加した武将たちが高山右近の影響を受けてこの教会に続々と通うようになりました。秀吉の馬回り衆の牧村政治(伊勢の国、岩出城二万五千石の大名)や、蒲生氏郷(伊勢、会津若松の領主、亡くなる時には百万石の大名)、黒田孝高(小寺官兵衛と呼んでいたが黒田如水として博多の領主)らの大大名も洗礼を受けました。さらに、毛利高政(大坂城教会で洗礼を受け、後に豊後佐伯城主となり、日田、玖珠の郡代も兼ねた)など、彼らに洗礼を授けたセスペデス宣教師の手紙によると、この年には「二百人以上の身分の高い侍たち」が大坂城教会に加わってきた事が書かれています。
細川ガラシャが信仰を持ち始めたのもこの教会でした。高山右近が語ったイエス・キリストの事を右近の茶道の友である夫、忠興から又聞きで聞き、キリスト教に興味を持つようになりました。
彼女は一生の内で一度だけお忍びでこの大坂城の教会に行き、セスペデス宣教師から導きを受けて洗礼を受ける決心をしたのです。細川ガラシャに仕えていた清原マリヤ(オイトの方)は、奈良で結城山城守忠正と一緒に洗礼を受けた清原枝賢の娘でした。一六〇〇年に関ヶ原の合戦で西軍が破れた時、細川ガラシャは夫が家康に味方したため細川邸は襲撃され、細川ガラシャ夫人はその時に天国に召されました。その場所であった所に、玉造のマリヤ大聖堂がガラシャの信仰を記念して建てられています。
河内の砂に建てられた教会堂でありましたが、数奇な運命をたどり日本のキリシタン史になくてはならない教会として輝いています、しかも、この教会の外形の素晴らしさと言うより、この教会が果たした役割は、ここで救われ、洗礼を受けた人々の信仰の素晴らしさであると思います。
異教徒の手に落ち、悪魔の道具になるよりは、と願い、大坂城に移築してさらに素晴らしい働きをなした「砂の教会堂」のように、今一度、主の働きのために信仰がリバイバルされたいものです。
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