当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。
河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著
(5)河内に福音をもたらした四条畷岡山城主、結城左衛門尉アンタン
河内にキリスト教を伝えた人
結城左衛門尉は、大和奈良で父・結城忠正がロレンソの説教を聞いて洗礼を受けた時、当地を訪れていた彼も、父と一緒に信仰を持ちました。彼が河内岡山城(四條畷市)
に帰ってイエスの素晴らしさを飯盛城で証しをしました。これが飯盛城で三好長慶幕下の七十三名の武士たちが洗礼を受けた河内キリシタ・集団を生み出す切っ掛けになりました。
彼は飯盛城の北西にある・砂の寺内に邸宅を持っていました。その自宅に教会建てたので、宣教師はその教会で彼らのために礼拝を司り、飯盛城で洗礼を受けた武士たちも平素はそこに集い、神について話したり、聞いたり、祈ったりしていました。
結城左衛門尉の死と葬儀
しかし、結城左衛門尉は三十二歳前後の若さでしたが、ある人が彼の財産を相続しようとして彼を毒殺しました。一五六五年七月二十二日付けのフロイス書簡で、「キリシタンの頭にして神を信仰し、また愛していた者が約三週間前に遭遇した事故のために、二日の内に死ぬのを神は許し給うた」と弔辞を述べています。
フロイスは、「結城左衛門尉なる武人は天下における最良のキリシタンの一人で、イエズス会のためにきわめて貢献するところがあり、この地方の全部のキリシタンの柱として、生前同様に、毒殺されて死ぬ時でさえ卓越したキリシタンとして逝去した」と伝えています。
戦国の武将として、彼はしばしば、「自分は神から長くは生きぬであろうと示されているので、日頃から死の準備はしている」と語っていました。一万人を超える人々が彼の葬式に集まり、壮大な葬儀が宣教師たちの手によってなされました。ダミアン修道士が都の郊外にある墓地に彼を埋葬する時、死について、および人間が神に対してなさなければならない責務について説教をしました。キリシタンでない会衆も、全ての聴衆はキリスト教の葬儀とメッセージに感動をしたようです。
松永久秀や法華僧侶と天皇の悪巧み
彼が殺害される二週間程前、足利義輝将軍が、松永久秀と三好義継によって殺害される騒動が起こっています、左衛門尉の父で松水久秀の側近であり、最初に奈良で洗礼を受けた結城山城守忠正が宣教師に対して、「あの連中は、自分たちの国王(将軍)であり、君主である方に対して、あのような叛逆をあえておこなったのであるから、彼らはいとも容易にあらゆる他の悪行を行う事が考えられる。バテレン様も身の安全を計らねばなりますまい。なぜなら二人の暴君は神の教えの敵です。ことに松永久秀は法華宗の信徒であり、法華宗の僧侶たちは、彼にも増して非常に苛酷な敵できわめて貧欲であり、バテレン方に対する憎しみから、教会をあなた方から奪い、都において神様の教えを繊滅せんと考えています」と、注意を促す報告をしてきました(フロイス『日本史』参照)。
実際、左衛門尉が殺された月の三十一日に、松永久秀や法華僧侶の日乗上人たちと正親町天皇による画策によって、「大うすはらひ」と称する宣教師追放令が都で出されました。
公家の山科言継の日記には、「今日左京太夫禁裡女房奉書出、大ウス逐払」云々と書かれています。
素晴らしい証しの葬式
このように宣教師たちは、結城左衛門尉が毒殺され、自分たちも死と追放の危機に直面しているにもかかわらず、河内岡山城主、結城左衛門尉の死に際して、盛大な葬儀と華やかな葬列の儀をいとも公然と執り行いました。
それはビレラ宣教師が一つも恐れる事なく、神様の栄光への熱心に燃える人であり、さらに結城左衛門尉の葬儀は、日本において初めて盛大に挙行される公式のキリスト教式のもので、それがどれほど重要であるかを心得ていたからです。
イエズス会の宣教師は、日本文化を正確に学び取って日本において葬式がどれほど大切なセレモニーかをよく学んでいましたので、近畿地区で最初のキリスト教式の葬儀になるので、人々の模範になり、証しになるように荘厳な葬儀を執り行おうとしました。
この事は単に城主であった高貴な信徒であるからではありませんでした。高山右近は高槻城主であった時、貧しい領民の死に際して葬儀委員長を買って出ました。父の高山飛騨守と共に貧しい領民の棺桶を担いで墓地まで行進したことが記録されています。
この封建的な時代、しかも戦国の世において、領主も一般の人々も神の前には平等であり、神にあって神の家族、兄弟姉妹である、との考えをキリシタンたちは教えられていたのです。
結城左衛門尉の葬儀を通して、聖書の教えが実際の生活の中で宣教師たちによって証明されたのです。
彼の死によってキリシタンの教会活動の中心は、河内岡山城(四条畷市忍が丘)から、三箇頼照の三箇城(大東市三箇)に移っていきました。
結城左衛門尉の死後、その息子、結城ジョアンが岡山城主として家督を相続しました。まだ若かったジョアンの後見人として伯父の弥平次が彼を助け、岡山の砂に、最も美しい教会堂を建て岡山をキリシタンの城下として、「一人の異教徒もいない」程に栄えさせました。ジョアンは、若江、八尾城主の池田丹後守の娘マルタを妻に迎えました。
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