地当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。
河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著
(3) 若江、八尾城主、池田丹後守教正
若江、八尾城主、池田丹後守
池田丹後守は一五六三年に飯盛城で三好長慶幕下の七十三名の武士が信仰を持ち、集団洗礼を受けた時の主だった一人でした。
彼は若江に住み、三好長慶と、養嗣子、三好義継に仕えました。三好長慶白身はキリシタンになりませんでしたが、キリシタンに対して特別な好意を示し、布教許可の便宜をはかり、布教の妨げを禁じました。
しかし、一五六四年に長慶が飯盛城で病死したので義継が跡をつぎました。次の年、長慶の死後に家臣で「下克上」の代表のような人物、松永久秀が三好義継と京都二条御所を取り囲み、足利将軍、義輝を殺しました。
四条畷岡山城主、結城左衛門尉が毒殺され、近畿で最初の荘厳なキリスト教の葬式が行われたのもこの頃でした。左衛門尉が殺された月の三十一日に、松永久秀や法華僧侶の日乗上人たちと正親町天皇による画策によって、「大うすはらひ」と称する宣教師追放令が都で出され、京都が混乱したので宣教師たちは三箇教会に避難しました。
信長が上洛した時、信長から義継は河内北半分が与えられ、池田丹後守も若江城主となり義継の後も信長に愛されて引き続き若江城主として君臨しました。一五七三年に足利義昭は信長と不仲になり、一時若江城に送られて来ました。この若江城が信長軍によって攻められた時、池田丹後守ら若江三人衆と言われた武将たちが信長に味方し城内に信長軍を迎え入たために、三好義継は割腹して自殺しました。これによって池田丹後守は信長から深く信頼されるようになったのです。
池田丹後守の名声があがると、共に若江城主であった多羅尾右近はこれを妬んで、河内キリシタンのリーダー三箇頼照等の三箇勢を滅ぼす事によって池田丹後守を引きずり下ろせると考えました。そして信長に、「三箇親子が信長に謀反をたくらんでいる」と讒言し、息子の三箇マンショは信長に処刑命令まで出されました。しかし佐久間信盛がかくまい、真実を信長に伝えて三箇親子は許されました。多羅尾右近の讒言や謀略によって三箇城が攻められると、池田丹後守は若江城から三百名の手勢を従えて救援に向かい、自ら三箇城に百名の手勢と留まって城を守りぬき、この功績によって丹後守は信長によって増封され、これを私せずに貧しい人々に施しを行った事が記録に残っています。
池田丹後守の娘マルタは四条畷岡山城主、結城ジョアンと結婚し、他の娘は池田丹後守と同じ時に飯盛城で洗礼を受けた河内長野烏帽子形城主、伊地智文太夫の息子と結婚しています。この時代、河内地方のキリシタンたちは結束を堅くして信仰を守り、励ましあっていたようです。
若江、八尾に教会を建てる
信仰を持った池田丹後守は自分の城下の若江に立派な教会堂を建てました。今、若江の城跡と伝えられている小字「城」の南西には大臼、また西北にはクルスという小字名が残っています。
また、「南蛮寺」と呼ばれた有名な京都の教会を建てる時、彼は多大な援助をしたばかりでなく、信長の紀伊雑賀討伐に加わって、分捕った鐘を教会に献じたりしています。
一五八一年頃に若江城がつぶされ、隣の八尾城主として八尾に移り、そこにも彼は教会を建てました。
一五七九年のカリアン書簡には、「池田丹後守の、二つの町に六百人のキリシタンがいる」と報告されています。一五八一年頃、池田丹後守は八尾で宣教師のために米二百俵を産出する土地を寄進し、仮の教会堂二ケ所を建てました。そして八尾には八百名のキリシタンがいたと言われています。
『八尾市史』によると、「西郷の西南の字谷小路に伴天連屋敷と称し、会堂が取り壊された時、鐘をここに埋めたとの伝説がある。正保四年(一六四七年)の西郷の庄屋の譲り状の中に『大うすかい』の字名が記されていて、伴天連屋敷の伝えと共に、或いは会堂跡のことに関連のあるものではないかと考えられる」と書かれています。
西郷の共同墓地からは、今年まで日本最古のキリシタン墓碑であった、イエズス会の十字架の紋章が刻まれた「マンショ」の墓石が出てきました。今年、それよりもさらに 一年古いキリシタン墓碑が四条畷から発掘されました。
一五八一年三月十九日、「綜欄の聖日」に巡察師のバリニヤーノが信長に会うための上洛の途中に八尾を通りました。フロイスは「池田丹後守が、今いる八尾付近に着いて荘厳な歓迎の宴が開かれた。
彼は多数のキリシタンの部下を道に出し置き、枝と薔薇を手に持ち巡察師バリニヤーノが通過する時それを道に投じ、我らはその上を通った。少し進んで野に蓆を敷いて屏風を廻らし、池田丹後夫人、並びにその子が岡山の貴婦人たちと共に我々を歓迎し、沢山の食物をもって饗応してくれた」と報告しています。
美濃の国への移封
一五八二年、信長が光秀に殺され、翌年には秀吉によって美濃の国に増封され、美濃に移されました。
小牧長久手の戦いで、彼は三百名の兵を率いて、「大いなる金の十字架のついた旗」を立てて奮戦し、三干名の敵に包囲されながらも敵中に血路を開こうと躍り込み脱出し、秀吉から加封をもって賞賛されました。しかし、この戦いで娘婿の結城ジョアンが戦死し、妻のマリヤと子供は池田丹後守のもとに引き取られました。この戦いで高山右近の陣営にいた蒲生氏郷や黒田孝高(官兵衛)他、数名の戦国武将たちが右近の影響を受けて大坂城の教会で洗礼を受けるようになりました。
この戦いで彼の働きが認められ、尾張で秀吉の養子、秀次に仕えるようになりましたが、一五八七年に秀吉はバテレン追放令を出したので、池田丹後守は秀次に、「妻子、家臣と共にキリシタンになって久しく、その教えの真にして善なることを知った故、決してこれを捨てる事はありません。もし関白殿がこの事のために殺そうとすれば死ぬ覚悟です。もし秀次殿がキリシタンとして仕える事を望まれるならば忠実にお仕えします。もし伯父上の迫害のために反対の考えがあれば、許可を得て退去します」と申し出ると、秀次は驚き、「従来通り仕えその教えを堅く守れ」と励ましてくれました。
愛知、岐阜のキリシタンの広がり
池田丹後守は、「駒井日記」によると、文禄三年(一五九四年)に彼が尾張の国、清洲奉行として働いていた事が分かります。
「河内キリシタン」の広がりを調査していると、河内のキリシタンが九州地方に大きな影響を与えた事が分かってきました。結城弥平次は、肥後の山奥にある矢部を領地として預かり、この地方に四千名のキリシタン集団を形成しました。今でも矢部地方で彼は慕われています。高山右近が加賀前田家の客分になって金沢に逗留した結果、多くのキリシタン集団が迫害時代にもかかわらず北陸でも形成されました。
キリシタンが殉教した地域に美濃、尾張地方が含まれている事を注意をして調べてみました。以前から、愛知、岐阜地方にキリシタンが多くいた事は知ってはいましたが、これほど多いとは思っていませんでした。
愛知、岐阜地方のキリシタンの広がりの特徴は、ほとんど宣教師や神父の影響が無い事です。九州や近畿地方には宣教師や教役者が常駐していましたが、この地方は信徒の証しと伝道活動によって広がったと思われます。この地域の教会は、最初、高山右近の父、高山飛騨守が大和沢城の領主だった時に導かれ、沢の教会の管理と清掃役であったコンスタンチイノが、沢城の落城で郷里の尾張花正村に帰り伝道した事に始まります。この地方に池田丹後守が来て、さらに急速に信徒の広がりを見せたようです。
潜伏していたキリシタンたちもかなりいたようで、一六六一年には恵那郡志保、帷子の二村で二十四人が召し捕られ、犬山方面で約六十人などが次々に捕らえられました。一六六三年には尾張一宮で七十人が、一六六五年には名古屋で二百人が千本松原で斬首され、同じ頃、美濃笠松の木曽川堤で数十人が斬首されました。一六六七年には約二千人が逮捕され、かなり多くの者が名古屋で斬首、一六九七年頃、帷子村の者三十~四十人が笠松で斬首と記録されています。
弾圧の中でも信仰を守り通した人たちの人数、年代、地域の広がりの大きさ、深さに感動しました。
彼らのように私たちの存在が、周囲の隣人に善い証しになって、人々をキリストのもとに引き付ける魅力となっているでしょうか。
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