はじめに

河内キリシタン人物伝

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載の許可をいただいたものです。

河内キリシタン人物伝
近畿キリシタンの繁栄とその広がり
神田宏大 著

はじめに

現在、私は関西の五百教会のネットワーク、近畿福音放送伝道協力会(略称・.近放伝)の代表として奉仕しています。近放伝は毎朝、大阪朝日放送からラジオの福音番組を放送し関西のUHF局からテレビの福音番組「ライフライン」の放送も行っています。私も毎月、このラジオ放送『近放伝アワー』で語っていますが、「河内キリシタン人物伝」は朝日放送ラジオで数回のシリーズでお話しした「河内キリシタン物諸」の原稿に加筆して一冊の本にまとめたものです。

この本を書いたのは私の住んでいる河内飯盛城において、キリスト教が近畿地方で最も栄え、素晴らしい信仰の模範となるクリスチャンが活躍したキリスト教の町であった事を人々に伝える必要を感じたからです。

多くの人々は「キリシタン」と言えば、長崎・九州地方を思い浮かべますが、むしろ政治の中心であった近畿地方の影響力の方が強かったのではないかと思われます。

だから豊臣秀吉の迫害によって処刑された殉教者「長崎の二十六聖人」も、大坂、京都で捕えられ、見せしめのために長崎まで引き回されて処刑された人々の多くは近畿地方のキリシタンたちだったようです。

講談社の『クロニック戦国全史』で、一六〇五年にはキリシタン信徒数は七十五万人と表記されています。そして「ザビエルの来日以来、キリスト教の教線は拡大した。一五八七年の秀吉の禁教令にもかかわらず、信徒は増加し続けた」と信徒増加の図が示されています。また最後の宣教師として来日したシドッチを取り調べた幕府の要人、新井白石は幕府のキリシタン資料を調べ尽くし、「皆ことごとくに誅せらる。前後凡二三十万人」(『羅馬人処置献議』東洋文庫『西洋記聞』より)と、幕府資料では、二、三十万人のキリシタンが弾圧されて殉教した事がわかります。江戸はまだ武蔵野の森であり、西日本が中心で人口も少なかった時代ですら七十五万人の信徒がいたキリシタンの時代を思い浮かべ、イエス様を命がけで信じた彼らから謙虚に学ぼうとしてこの本を出版しました。

なるべく一般の人々が理解できるよう、キリシタン用語を現代表記にするように心がけました。

また「バテレン」と呼ばれた言葉も、「宣教師」として表記しました。フロイスの「日本史」の引用が多くありますが、多くは中央公論社のものから引用させてもらいました。この「日本史」を訳された一人であるキリシタン研究の大家、松田毅一氏から教えられるところが多くあり、特に「南蛮太平太閤記』や『河内キリシタンの研究』はよき参考文献として利用させていただきました。

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