解説 『天下人三好長慶と飯盛城』

大東市の観光の目玉に浮上した三好長慶とはいかなる人物か?頃は戦国時代真っ只中、織田信長が天下取りを目指す直前に活躍した武将です。四国東部・河内、和泉・大和を平定した長慶は飯盛山頂(314m)に築かれた山城を居城として近畿一円を統治しました。私たちの身近なところで活躍した三好長慶を再現したイベントが催されます。(三好長慶公武者行列in大東

 

 

解説
『天下人三好長慶と飯盛城』

 

三好家の初期

三好長慶(1522~1564)は四国阿波(徳島県)の出です。

 

戦国時代の初期。大阪、淡路島、四国東部は細川家が支配していました。細川家は足利将軍重臣(管領職)で、三好家は細川言え軍勢の一員として活躍していました。

 

三好家も代が変わり長慶の時代になると長慶は主君と戦うことになります。一進一退を繰り返しながらも大阪・堺に上陸し激戦の末、三好家は大阪を支配します。さらに勢いに乗りそのまま京都に攻め入り足利将軍を倒し、四国・淡路を含む近畿を支配下に治めました。

 

 

飯盛城入城

飯盛城は戦国時代に城郭として整備されたといわれています。

城郭といっても大阪城や姫路城にあるような天守閣はありません。

 

四国から大阪に拠点を移した長慶が直ちに飯盛城に入ったわけではありません。四国から大阪に入る際と同じように飯盛城入城でも戦いの繰り返しがありました。

 

元々、畠山家のものだった飯盛城内で主君と配下の確執に、他の武将たちがそれぞれに加担して戦いが始まります。戦いが終わるとまた戦いが繰り返されるなど謀反と加担の繰り返しでした。長慶も戦乱に加わり、ついに長慶は飯盛城の城主になります。

 

これまでに制圧した四国の伊予や摂津、京都丹波に続き、大和も制圧して近畿一帯を平定しての入城です。京都を中心とした周辺を抑えることで全国に影響を及ぼすことができた長慶は、織田信長に先駆けての「天下人」でした。

 

長慶が目指したもの

①将軍を必要としない世の中をつくる。(目的は果たした。)
権威のみの上方中心の政治を改める。

 

②キリスト教の保護。
長慶は信者ではないが、家来だけでなく三箇、田原、砂、岡山などの民衆の間に広まった信仰を保護し、キリスト教文化が花開くきっかけをつくろうとした。

 

飯盛城を居城にしたわけ

①飯盛城に入る前は芥川城(高槻市)を居城にしていたが、飯盛城は京都、大阪、淡路島など近畿の中心地で統治しやすい。

②府内最大規模の城である。城壁は土ではなく石垣で固められている。

③眼下に深野池があり敵に対して防御に最適。

 

以上のような好条件が揃っているとみた長慶は、これまでの土造りから石積の城壁に変えることで本格的な城にしました。

 

 

三好家のその後

長慶病死(43歳)後、後継者、義継は高屋城へ移りますが、追放されていた将軍の弟、義昭を伴って織田信長が永禄11年(1568年)に入洛(京都へ進軍)すると、織田軍の圧倒的な強さに長慶亡き後の三好軍は敗退。京都も大阪も織田信長が支配し三好家は滅亡してしまいました。

 

 

結びに

~(略)~特筆したいのは、武田信玄や織田信長などが東海や信濃などで天下取りを目指している同じ頃、短期間であったとはいえ、長慶が私たちの住む北条中学校区の真上、飯盛山上から近畿一帯に君臨(5年間)していた史実があることを知っていただきたいということです。

北条中校区にすむみなさん、ぜひ<三好長慶公武者行列の観覧と関心を深めていただきますようお願いします。

[資料提供、教育委員会生涯学習課]

北条タウン紙 みらい・未来 N0.190 より転載・(HP)>

 

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