“松永久秀”は戦国時代屈指の梟雄(きょうゆう)か?東大寺大仏殿に火を放ったに異説

三好長慶に仕えた松永久秀(別名、松永弾正)。梟雄(きょうゆう)とは、梟(フクロウ)の様に抜け目がなく、昨日まで親類・縁者だった者でも平気で殺すような情け容赦のない英雄の意味


松永久秀弾正 下剋上の梟雄(きょうゆう)?

 

東大寺大仏殿に火を放ったのは松永軍か?

 

永禄10(1567)年東大寺大仏殿に火をつけたのは、通説では松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、松永久秀の敵方である三好三人衆にいたキリシタンの誰かが東大寺に火を付けたという、異説がある。

 

その記録がルイス・フロイスの「日本史」の中に書かれているのである。

 

(中公文庫の「完訳フロイス日本史」第1分冊の第20~22章より紹介)

「・・・私達は、日本のあらゆる遠隔の地方から人々がこの寺院に参詣する盲目さ、並びに彼らが拝む悪魔や偶像による他に何の救いもないかのように、こうして誤った救いを渇望している有様に接しては、涙し、同乗せずに折れません。そして私どもがもっとも驚かざるをえないのは、日本人は、シナ人やインド人とは全てにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも懸命、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見出す事なのです。」(279p)

 

 

とあるように、キリスト宣教師にとって仏教の仏像は、悪魔や偶像であり、いかなるものも排除すべき対象物にすぎないのである。

 

この文章に続いて、ルイス・フロイス自身が次のような文章を書いている。

 

「今から20年くらい以前のことになるが、ルイス・デ・アルメイダ修道士が下(シモ:九州)へ帰った数年後に、(松永)弾正殿は、同修道士が先に述べた、かの豪華な城で包囲された。その多聞山城(タモンヤマ)を包囲した軍勢の大部分は、この大仏の寺院の内部とこの僧院(東大寺)のあらゆる場所に宿営した。その中には、我らイエズス会のに良く知られていた一人の勇敢な兵士もいたのであるが、彼は、世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇拝のことに熱心なあまり、誰かにたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く離れた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘楼以外はなにも残らず全焼してしまった。丹波および河内の国では、同夜、火の光と焔(ほのお)が大和国との間に横たわる山々の上に立ちあがるのが見られた。」(279p・280p)

 

 

日本の資料をみてみる

 

『多聞日記』
「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法華堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した・・・」

『大和軍記』
「(三好軍の)思いかけず鉄砲の火薬に火が移り、

『足利季世紀』
三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」

 

史料を読む限りでは、松永久秀弾正が東大寺を焼失させたという通説はおかしい、といわねばならない。「三好三人衆にいたキリシタンの誰かが東大寺に火を付けた」とフロイスは書いているのである。

 

松永弾正軍は過去に火を用いて寺を焼いたことがあり、三好長慶の弟「十河一存」、嫡男の「義興」を毒殺し、13代将軍、足利義輝の暗殺も主導した人物とされており、そのイメージから松永軍が火を放ったと思われても仕方がなかった面もあろうが、東大寺大仏殿に関しては無実であろう。

郷土歴史研究家 今村與志雄  (文)


松永久秀は、戦国時代屈指の「梟雄(きょうゆう)」下剋上の代名詞などのイメージを一般には抱かれており、小説を始めとした創作においてもそのような人物として描かれることが多いが、こうした久秀のイメージは、後世に成立した『常山紀談』などを典拠として成立したところが大きい。少なくとも実際の久秀は主君・三好長慶の存命中は、目立って謀反を起こしたり専横をしたことは一次史料からは確認できない。これらの情報の多くは軍記物などを典拠としたもので、信憑性に乏しい。