大東市・野崎(のざき)の歴史

◆縄文時代 飯盛山・生駒山すそまで海

縄文時代、大阪平野は全体が海の底で、飯盛山、生駒山等の山裾近くまで海水が入り込んだ、河内湾でありました。河内湾は奥深く内陸に入り込んでおり、瀬戸内海や外洋と直接、繋がっていました。

 

  趙哲済氏復元(『平野区誌』より)

◆弥生時代~古墳時代 (集落の形成・渡来人)

塩水の河内湾から淡水の河内湖へと縮小した弥生時代には、人々が住み着き、農耕を基盤とする集落が形成され始めます。古墳時代には堂山古墳群を始め飯盛山麓一帯に多くの古墳が造営され、その麓には当時朝鮮半島からやってきた渡来系の人々が活動をしていた痕跡が見いだされます。

 

   趙哲済氏復元(『平野区誌』より

堂山古墳群史跡広場(眼下に大阪市内を一望!230度ビューの景勝)

 

中世~ (貴重な歴史文化遺産多数)

 

大和川つけかえ前のざき♡

河内湖は年月の経過とともに、中世には北東側に深野池・南西側に新開池という二つの大きな池となりました。清少納言が「枕草子」のなかで勿入渕(ないりそのふち)と呼称しています。(深野池は永元年(1704)の大和川の付替えに伴い新田開発が行われ現在の大東市域の原形が形成されます。深北緑地公園の深野池、門真市の弁天池が名残り。(新開池は大和川の付け替え工事と新田開発により消滅)

 

  • 生駒山麓は原始修験の霊場が多数存在。(龍の住む地龍伝説

 

  • 平安時代に整備された東高野街道と、浪速・河内から奈良へ向かう古堤街道(阪奈道の前身)(中垣内越・竜間越ともいわれる)の交差する交通の要衝としても重要な地

 

  • 京都へと結ぶ東高野街道は戦の道でもあった。南北朝時代では四條畷の戦いの舞台となる

 

  • 戦国時代には、三好長慶により戦略上の拠点として飯盛城が築かれ日本の政治の中心となる。(河内キリシタンの聖地)

 

◆江戸時代・大和川付け替え以降

大和川付け替えで古堤街道は安定した陸路となり、人の往来でにぎわうだけでなく、以前の池や川が水路と して整備され、舟運で物や人の移動が容易となりました。江戸時代に庶民の娯楽として流行し、今でも盛んな野崎まいり(野崎観音)・お伊勢さんへのおかげ詣りなどで知らるようになります。

 

 

 

 

野崎まいり(江戸絵)

河内名所図会(かわちめいしょずえ) 野崎まいり

 

 

 

 

 

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